五月十五日、従兄弟の車で千葉へ出かけました。今回の旅で最も楽しみにしていたのは、初めて東京湾アクアラインを走ることでした。海底トンネルへ入り、その先の海の上に千葉まで橋が伸びていました。全長15キロを超える道路のうち、およそ10キロが海底トンネルだそうです。走行中「今、本当に海の底を走っているのだ」と思うと、不思議な気持ちと少しの不安が入り混じりました。このような建造物を考えて設計して作った人間がいたということに驚きを覚えました。 途中で立ち寄った海ほたるパーキングエリアは、想像していた休憩所とはまるで違っていました。まるで巨大なショッピングセンターのようで、多くの人で賑わっていました。屋上に上がると、東京湾が360度見渡せました。空と海がどこまでも続き、地球は丸いのだということを実感しました。 九時半には千葉へ上陸し、その後、笠森観音へ向かいました。山頂の大岩の上に建つお堂は壮観で、何本もの柱が建物を支えている姿に圧倒されました。京都の清水寺と同じ工法だそうで、急な木の階段を登ると、南房総の山々が一望できました。眼下には深い森が広がり、吹き抜ける風が心地よく感じられました。参道には「子授楠」や「三本杉」といった名木もあり、長い歳月を生き抜いてきた木々の姿に自然の力強さを感じました。 次に訪れたのは大多喜城でした。大多喜城は、大永元年(1521年)に徳川四天王のひとり本多忠勝が築いたことで知られる城です。天守閣は天保13年(1842年)の天守焼失しましたが、昭和50年(1975年)9月に復元されました。天守閣は立派で千葉の三名城(佐倉城、本佐倉城、大多喜城 )の一つになっているそうです。現在は修復中で天守には入れませんでしたが、展示室で千葉には数百もの城が存在したことを知り驚かされました。さらに、先祖が仕えていた菊間藩にも城があったことを知り、遠い歴史が急に身近に感じられました。 その後、誕生寺へ参拝しました。日蓮聖人御誕生の地に建つ大本山だけあって、本堂の彫刻は見事でした。細部まで施された彫刻を眺めていると、当時の人々の信仰の深さが伝わってくるようでした。近くには鯛の餌付けで有名な鯛ノ浦もありますが、今回は時間が足りず立ち寄れませんでした。またいつか訪ねてみたいと思いました。 帰りは浜金谷からフェリーに乗り、久里浜へ渡りました。途中でゆっくり食事をする時間がなく、...
五月二日。新緑が目にまぶしい散歩道の終わりに、私は一羽のキジバトと出会った。 道路の真ん中でうずくまるその姿は、まだどこか幼く、クチバシの形がそれが巣立ちを目前にした幼鳥であることを物語っていた。おそらく、風に煽られたか、羽ばたきの練習中に巣から落ちてしまったのだろう。 そのままでは、通り過ぎる車に無機質に潰されてしまうのを見たくなかった。私はその小さな体をそっと拾い上げ、道端の安全な場所へと移した。 「喉が渇いているのではないか」 そう思い、家から水を汲んで戻ったが、幼鳥は水を見つめるだけで、一口も飲もうとはしなかった。ただ、よちよちとおぼつかない足取りで、生きたいのか、隠れたいのか、必死に地面を踏みしめていた。 その夜、季節外れの強い風が吹き荒れた。 翌朝、胸騒ぎを覚えて庭へ出ると、そこには昨日の幼鳥の姿はなかった。代わりに、庭一面に点々と散らばる柔らかな羽。木陰には、かつて命であったものの断片がわずかに残されていた。 夜の闇に紛れて、猫か、あるいはアライグマに襲われたのだろう。 あんなに健気に地面を歩いていた命が、一夜明ければ文字通り「霧散」している。その光景を前にして、私は不思議と、悲しみよりも自然の持つ圧倒的な「合理性」に打たれた。 自然界は弱った個体の存在を許さない。他の命の糧となることで、速やかにその場から消し去られ、自然の循環の一部に組み込まれていく。死骸という生々しい結末を私に見せることなく、自然は淡々と、そして完璧にその「掃除」を終えていたのだ。 幼鳥の死を直視せずに済んだことは、私への救いだった。 けれど、あの時差し出した水に口をつけなかったのは、もう彼がこの世界から旅立つのを覚悟していたのではないかと思った。 残された羽を風がさらっていく。 五月の風は、何事もなかったかのように、今日も新緑を揺らしている。