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私は誰ですか?

健康診断が無料で受けられるという通知が来たので、インターネットで登録して受診しました。腎臓、肝臓、大腸、前立腺、肺など、一通りの検査が用意されています。体重、身長、検尿、検便、レントゲンと順に受けていきますが、そのたびに書類を書きます。住所、生年月日、電話番号、日頃の健康状態など、似たような内容を何度も記入することになります。 検査を受ける前には、毎回、名前と生年月日を言わされます。本人確認を厳重にしているのだろうと思いますが、指紋認証などでもっと簡略化できないものかと感じました。文字を書くことに慣れていない人にとっては、かなりの負担ではないでしょうか。最初にマイナンバーカードで本人確認をしているのですから、それで十分ではないかとも思います。 一方で、インターネットの世界では事情が逆です。たとえばアマゾンで買い物をするときや、SNSやメールを登録するときは、ほとんどの場合パスワードだけで本人確認が行われています。本当は住所や生年月日を入力させた方が確実なのでしょうが、個人情報が漏れることを恐れて入力させないのだと思います。 パスワードは、コンピューターのタイムシェアリングシステムが登場した1960年代から半世紀以上使われている、きわめて単純な認証の仕組みです。そしてハッキングの多くは、パスワードを盗まれることから始まります。パスワードに頼っている限り、サイバー犯罪はなかなか減らないのではないかと思います。 「あなたは誰ですか」と聞かれたとき、私はこういう者です、と自分で説明するのは案外むずかしいものです。しかし、インターネットで自分の名前を検索してみると、かなり詳しく私のことを説明してくれます。AIは、もしかすると私自身よりも私のことをよく知っているように思います。 AIがこれほど進歩しているのですから、もっと確実な本人認証の仕組みができないものだろうかと思います。顔、声、虹彩、筆跡、指紋、静脈、DNAなど、方法はいくらでも考えられます。しかし同時に、もし私になりすました偽物が現れたらと思うと、少し恐ろしくもあります。実際、SNSではすでに私の名前を使った偽物らしいものを見かけることもあります。 現実の世界では厳重すぎるほど本人確認をするのに、インターネットでは驚くほど簡単に済ませてしまう。その違いに、時代の不思議を感じました。これほどAIが発達している時代ですが、...
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ホトケノザと戦争

ホトケノザという春の草がある。春の七草の一つのホトケノザとは種類が違うようだが、こちらの方が名が体を表している。花を仏に見立てると、葉の部分が蓮華座のように見えて、念仏を唱える仏様のように見える。散歩をしているとどこにでも生えているのだが、それを抜いてきて庭に植えてもすぐに枯れてしまう。人が与えた場所なんて住めない。住むところくらい自由にさせてくれと言っているようだ。思ったより自己主張が激しいのかもしれない。 イランが攻撃されている。突き詰めれば原因は土地問題だ。何もなければ静かに暮らしてられたのに一部の政治家の介入で爆弾を落とされて何百人もの子どもたちが命を落としている。国のため、民族のため、経済のためと言っているが、トランプは命を落とした何百人の子どもたちの遺骸を見て心が痛くならないのだろうか。国際法というものがあるそうだ。戦争では人を殺しても良いのだそうだ。勝手に自分たちの都合で法律を作って人を殺して良いのか。 トランプは、世界で最も大きな国のトップだ。なんでも出来る。でも彼の心は私利私欲、経済、選挙が渦巻いていて貧しいものだ。いのちのことを考えているお寺の住職、街をきれいにする清掃員、病人を治してくれる医者、介護してくれる人、学校の先生、そんな人たちのほうが余程、心は豊かで美しい。子どもを殺してもなんとも思わないトランプを私は決して許さない。 イランやイスラエルにホトケノザの種をまいて茂らせたい。なくなったたくさんの小さな子どもたちのために手を合わせたい。
 初めてChromebookを外に持ち出して使ってみた。ポケットWiFiがないので、iPhoneのテザリングでやっている。文字を打つくらいなら特に問題ない。でも、通信ができないときに備えてオフラインで使う方法を調べている。どうやらTEXTというデフォルトのテキストエディタがあるらしい。ローカルにハードディスクもあるようなので文章をそこにためていくということが可能だと分かった。 今日は、白山道の白山神社のベンチで書いているが、散歩していると所々に公園があってありがたい。しかも、ほとんど人がいない。独り占めである。日本は平和だなあ、と思う。こういう小さな幸せが味わえる国が本当に良い国になのだろう。海の向こうでは、つまらないエゴが原因の戦争が始まっている。愚かなことだ。 お寺の和尚さんがこんなことを言っていた。 <放てば手に満てリ 一多のきわならむや> 道元禅師の正法眼蔵の一節だそうだ。執着を捨てれば真理が手に満る、全体と個の区別のない自由の境地になる。私利私欲だけでドローンで子どもたちを殺しているトランプは、どんなことを考えているのだろうか。

中古のChromebookを買う

  ブックオフに行ったついでにハードオフを覗いてみたらASUSのChromebookの新しそうなものが売られていた。衝動買してしまった。10年以上前の機種だが何とか使える。ChatGPTやGeminiは使えないがブラウザは普通に使える。この日記もそれで書いている。快適だ。これからはChromebookを持っての散歩もありかなと思う。中国製だが良くできていると思う。中国を蔑んでいる人がいるがモノ作りは中国がダントツだ。尊敬に値する。 外で調べ物をするくらいなら十分な機能だ。電池もヘタってなく10時間も持つ。掘り出し物だった。7000円で買ったが、メルカリでは4000円で売られていた。定価は3万以上なので、まあ良いかと自分を慰めた。 それでネットサーフィンをしていたら、プレゼン用のレーザーポインターの安いのが見つかった。これもポチッとやってしまった。画面操作も出来るのでこれも優れものだ。2000円くらい。これからプレゼンの機会が増えそうだ。人に物事をどのように伝えるかを学んで行きたい。 元日本テレビアナウンサーの福澤朗氏のプレゼンはキャッチボールという言葉が心に残っている。考える、まとめる、表現する、伝えるということで物事は完結する。おもしろい。

ミニ集会 地域に潤いを与える「子ども食堂」

実は、私はつい最近まで「子ども食堂」という存在に対して、非常に冷ややかで懐疑的な目を向けていました。 「なぜ、わざわざ子どもに食事を配る必要があるのか」 「今の日本は、そんなに貧しい国になったのか」 そんな思いが拭えなかったのです。 私が青年期を過ごした昭和四十年代、日本は今とは比べものにならないほど、物理的に食べ物が不足していました。中学校の体育の時間、教室が留守の間に誰かの弁当が食べられてしまう――そんな出来事が日常茶飯事だった時代です。あの頃の子どもたちは、文字通り「腹をすかせて」いました。 だからこそ、飽食の時代と言われる現代に、ボランティアが食事を提供する光景が、どこか「偽善」や「子どもを出しにしたお遊び」のように見えてしまっていたのです。 しかし、ミニ集会で子ども食堂 (みち草CC) のお話をお聴きし、その考えは大きな間違いだったと痛感しました。 私が見ていたのは「昭和の物差し」であり、現代の子どもたちが抱える「飢え」の本質を見落としていたのです。 ■ 現代の孤独とコミュニティ かつて、私たちが「村」に生きていた頃、隣や親戚の家に入り込んで夕食をご馳走になることは、ごく自然な風景でした。 「子どもは地域で育てるものだ」という無意識の合意が、社会の中に確かに存在していたからです。 しかし都市化が進み、人と人とのつながりが希薄になった今、子どもたちは家の中で「独り」になっています。冷蔵庫に食べ物はあっても、誰とも会話をせず、一人で食べる食事。 それは、かつて私たちが経験した「胃袋の空腹」と同じくらい、あるいはそれ以上に切実な「心の空腹」なのではないでしょうか。 子ども食堂は、私たちが高度経済成長の過程で落としてきてしまった「地域コミュニティ」という宝物を、もう一度取り戻す場所なのだと思います。 ■ 支え合う喜び 子ども食堂で働いている方々のことをお聞きして、さらに考えが変わりました。 彼ら彼女らはお金のために働いているのではありません。子どもたちの「おいしい」という笑顔に励まされ、自分自身の居場所を見いだしているのです。 特にご高齢のボランティアの方々にとって、そこは「自分が必要とされる喜び」を実感できる、かけがえのない自己肯定の場になっているのです。 支える側も、支えられる側も、等しく満たされる。 これこそが、私たちが目指すべき「支え合って生きる社会」の理...

一隅を照らす・・・「何者」かになれなくても、あなたは誰かの光である

   毎日、満員電車に揺られ、山積みのタスクをこなし、気づけば外は真っ暗。そんな日々を繰り返していると、「自分は組織の歯車に過ぎないのではないか」「もっと大きな成果を出さなければ価値がないのではないか」と、ふと虚しさに襲われる夜があるかもしれません。  そんなあなたに、ある里山に住む九十歳のおじいさんの話を贈りたいと思います。  その里山のそばには、通勤の車や自転車が行き交う一本の道路があります。季節になれば大量の落ち葉が道を埋め尽くし、放っておけばスリップの危険もあるような場所です。しかし数年前から、その道はいつも驚くほどきれいに掃き清められていました。  ある早朝、その理由がわかりました。近所に住む一人暮らしのおじいさんが、誰に頼まれたわけでもなく、黙々と竹箒を動かしていたのです。  通りかかった人が、思わず尋ねました。「おじいさん、一円の得にもならないのに、どうしてこんな大変な掃除を続けているんですか?」  おじいさんは腰を伸ばし、穏やかな笑顔でこう答えました。「自分の健康のためにやっているんだよ。おかげでこの掃除を始めてから病気もしなくなった。落ち葉には感謝しているんだ。それに、道がきれいになれば、みんな気持ちがいいじゃないですか」  おじいさんは、特別な資格を持っているわけでも、社会的に大きな影響力を持つ立場でもありません。ただ自分のために、そしてほんの少し「誰かの心地よさ」のために、目の前の一歩を掃き続けていただけです。  平安時代の僧、最澄はこんな言葉を遺しました。 「一隅(いちぐう)を照らす、これすなわち国宝なり」  一隅とは、今自分がいるその場所のこと。スポットライトを浴びる大きな舞台ではなく、誰の目にも触れないような片隅であっても、そこを明るく灯す人こそが「国の宝」であるという教えです。  今の社会では、数字や役職、目に見える成果ばかりが評価されます。そのため、私たちは「もっと大きなことをしなければ」と自分を追い込んでしまいがちです。けれど、本当の尊さは、そんな派手な場所だけにあるのではありません。  職場のデスクを少し整える。 疲れている同僚に、温かい飲み物を差し入れる。 家族に「おかえり」と優しい声をかける。  そんな、履歴書には書けないような小さな「一隅」の灯火が、実は誰かの凍えた心を救っていることが多々あります。おじいさんが掃き清...

腎臓高血圧内科主催市民公開講座

 ・日時:2026年2月20日 14時~15時30分 ・場所:金沢公会堂 ・主催:横浜南共済病院 腎臓という臓器は、血液を浄化する装置。血液は一度腎臓を通って濾過されて老廃物や余分な水分が尿として放出される。腎臓が悪いかどうかはGFRという数値で分かるらしい。濾過する装置には糸球体というものが入っているらしい。病気になると、それが損傷する。そうなると尿に赤血球が漏れ出して血尿が出るらしい。タンパク質もでることがあるそうだ。腎臓は、無言の臓器と言われていて自覚症状がないので怖い。足のむくみや体重の急激な変化、だるさなどが出たときには、かなり症状が進んでいるそうだ。腎臓の初期の損傷を調べるためには、血液と尿の検査が必要らしい。血圧が高いと腎臓がやられるらしい。血圧も定期的に測っておいたほうが良い。酒は、飲みすぎなければ良いらしいが、飲まないに越したことはないそうだ。出来るだけ飲まないようにしたいものだ。一日に1.5リットルくらいの水を飲んだ方が良いそうだ。そんなに飲んでいるだろうか。肝腎という言葉があるが、 どちらも生命維持に不可欠な非常に重要な臓器である。大切にしたい。