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ホトケノザと戦争

ホトケノザという春の草がある。春の七草の一つのホトケノザとは種類が違うようだが、こちらの方が名が体を表している。花を仏に見立てると、葉の部分が蓮華座のように見えて、念仏を唱える仏様のように見える。散歩をしているとどこにでも生えているのだが、それを抜いてきて庭に植えてもすぐに枯れてしまう。人が与えた場所なんて住めない。住むところくらい自由にさせてくれと言っているようだ。思ったより自己主張が激しいのかもしれない。

イランが攻撃されている。突き詰めれば原因は土地問題だ。何もなければ静かに暮らしてられたのに一部の政治家の介入で爆弾を落とされて何百人もの子どもたちが命を落としている。国のため、民族のため、経済のためと言っているが、トランプは命を落とした何百人の子どもたちの遺骸を見て心が痛くならないのだろうか。国際法というものがあるそうだ。戦争では人を殺しても良いのだそうだ。勝手に自分たちの都合で法律を作って人を殺して良いのか。

トランプは、世界で最も大きな国のトップだ。なんでも出来る。でも彼の心は私利私欲、経済、選挙が渦巻いていて貧しいものだ。いのちのことを考えているお寺の住職、街をきれいにする清掃員、病人を治してくれる医者、介護してくれる人、学校の先生、そんな人たちのほうが余程、心は豊かで美しい。子どもを殺してもなんとも思わないトランプを私は決して許さない。

イランやイスラエルにホトケノザの種をまいて茂らせたい。なくなったたくさんの小さな子どもたちのために手を合わせたい。

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