実は、私はつい最近まで「子ども食堂」という存在に対して、非常に冷ややかで懐疑的な目を向けていました。
「なぜ、わざわざ子どもに食事を配る必要があるのか」
「今の日本は、そんなに貧しい国になったのか」
そんな思いが拭えなかったのです。
私が青年期を過ごした昭和四十年代、日本は今とは比べものにならないほど、物理的に食べ物が不足していました。中学校の体育の時間、教室が留守の間に誰かの弁当が食べられてしまう――そんな出来事が日常茶飯事だった時代です。あの頃の子どもたちは、文字通り「腹をすかせて」いました。
だからこそ、飽食の時代と言われる現代に、ボランティアが食事を提供する光景が、どこか「偽善」や「子どもを出しにしたお遊び」のように見えてしまっていたのです。
しかし、ミニ集会で子ども食堂(みち草CC)のお話をお聴きし、その考えは大きな間違いだったと痛感しました。
私が見ていたのは「昭和の物差し」であり、現代の子どもたちが抱える「飢え」の本質を見落としていたのです。
■ 現代の孤独とコミュニティ
かつて、私たちが「村」に生きていた頃、隣や親戚の家に入り込んで夕食をご馳走になることは、ごく自然な風景でした。
「子どもは地域で育てるものだ」という無意識の合意が、社会の中に確かに存在していたからです。
しかし都市化が進み、人と人とのつながりが希薄になった今、子どもたちは家の中で「独り」になっています。冷蔵庫に食べ物はあっても、誰とも会話をせず、一人で食べる食事。
それは、かつて私たちが経験した「胃袋の空腹」と同じくらい、あるいはそれ以上に切実な「心の空腹」なのではないでしょうか。
子ども食堂は、私たちが高度経済成長の過程で落としてきてしまった「地域コミュニティ」という宝物を、もう一度取り戻す場所なのだと思います。
■ 支え合う喜び
子ども食堂で働いている方々のことをお聞きして、さらに考えが変わりました。
彼ら彼女らはお金のために働いているのではありません。子どもたちの「おいしい」という笑顔に励まされ、自分自身の居場所を見いだしているのです。
特にご高齢のボランティアの方々にとって、そこは「自分が必要とされる喜び」を実感できる、かけがえのない自己肯定の場になっているのです。
支える側も、支えられる側も、等しく満たされる。
これこそが、私たちが目指すべき「支え合って生きる社会」の理想の形ではないでしょうか。
■ これからの視点
私は今、子ども食堂を単なる慈善活動だとは思っていません。
それは、希薄になりがちな現代社会の隙間を埋め、人と人とを再び結びつけてくれる「村の良さを味わえる現代の茶の間」だと感じています。かつて、食事を分け合いながら和気あいあいと暮らしていた時代の精神を、今の社会に合った形でつないでいく――そんな役割を担っているのではないでしょうか。
散歩の途中に気軽に立ち寄り、世間話をしながら子どもたちから元気をもらえる。そんな場所が地域に増えていったら素敵だと思います。この温かい活動を、これからも応援していきたいと考えています。
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