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20250421/釜利谷を歩く

 暖かくなった。いつもと逆のコースで釜利谷を歩いてみた。大道東橋からダラダラ坂を上って道路工事をしているあたりを下る。白山道のトンネルを超えると畠山六郎重保の墓がある。板東武者の鑑と言われていた畠山重忠の息子である。重保は、この地に逃れて自刃したという伝承があるが、六郎橋という名前が残っているので、生き延びてしばらくこの付近に住んでいたのではないかと私は考えている。


この辺りには、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」の太田道灌の山吹の里の伝承もある。

退屈な車道をずっと歩くと宮川のほとりに手子神社がある。ここも伊丹氏の創始で、境内に竹生島弁財天社がある。もともとは海側にあったが、海軍が現在の山側に移した。やぐらに人面蛇体の宇賀神が祀られていて、いつも卵が奉納されている。宇賀神は、お金儲けの神様で、鎌倉の銭洗財弁天も宇賀神を祀っている。


手子神社の狛犬がほほえましい。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」の姿だが、今やったらパワハラと言われそうである。

手子神社の前を流れる宮川にはクロダイが泳いでいた。噂によると温暖化の影響で川を上ってきているのだという。侍従川にもたくさん泳いでいる。野島の海苔が食害にあっているという話を聞いたことがある。刺身にしたらうまそうなクロダイだ。


宮川の上流は、釜利谷町小川アメニティとして整備されている。団地に隣接する水路が、親水性あふれるプロムナードとなっている。人工的な水路だが、アメンボや小エビ、カワニナなども増えており住民の憩いの場になっている。途中に田んぼや蓮田も作られており昔の釜利谷の原風景を見ることができる。



小川の終着点あたりを右に曲がると禅林寺がある。静かな良いお寺だ。このお寺は、道元の曹洞宗。禅寺というものはこのようなものかもしれない。たぶん、浄土真宗とは違うと思う。


帰りに、東光禅寺に寄って、畠山重忠の親父の畠山重忠の供養塔の写真を撮った。畠山重忠の奥さんは、板東武者の三浦義明の娘だ。その義明を討ったのが畠山重忠と言われている。三浦義明は、その時89歳。義理の父親で、そんな老人を殺したとは思えない。自然に静かに息を引き取ったのではないかと私は考えたい。亡くなる前に義理の息子の畠山重忠に板東武者とは何たるかを伝えたのではないか。頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて一族もろとも滅ぼされたが、畠山重忠は板東武者の鑑と言い伝えられている。

今日の散歩は、ほぼ1万歩だった。

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20250418/白山道を歩く

  高宗の谷戸を進むと高舟台に上る石段がある。足腰を鍛えるにはちょうど良い。登りきると高舟台小学校の裏門に出る。子どもたちが集団登校している。下って東光禅寺に寄るのが定番の早朝散歩コース。東光禅寺は、板東武者の畠山重忠が開いたお寺で供養塔がある。そこの和尚さんは、海外留学の経験があり英語が話せるのでZoomで世界に向けてオンライン座禅などをやっている。庭で四季折々の花が楽しめる。庭で和尚さんが雑草の写真を撮っていた。花を付けた雑草は貴重だという。雑草は採ってきて鉢に植えてもすぐに枯れてしまうのだそうだ。人為を嫌って好きなところで自由に生きたいと考えているのだそうだ。 お寺の前にア・トリエ 麦卵というのぼりが出ていた。 最初は陶芸などの工房だと思っていたが、お菓子屋さんだった。開店が10時半なのでまだ時間があるので、近くの白山神社に行った。小さな神社だが、掃除が行き届いていて立派な仏像もある。ベンチで本を読んで時間をつぶすことにした。今読んでいる本は、「サピエンス全史」下巻の半分くらいにさしかかっているところ。帝国主義と近代科学技術によって世界の勢力地図が出来上がったというようなことが書いてあった。イギリスやスペインなどの列強は科学技術を使って謎を解きながら植民地支配を広げていったのだそうだ。確かに古代文明を調査したのは、ほとんどが欧州の人たちだ。ロゼッタストーンを使ってヒエログリフや楔形文字を解読したのも欧州の人だ。 ア・トリエ 麦卵は、 店名の通り、麦と卵で作ったふわふわのシフォンケーキを売っている。舌触りのいいプリンもある。少し歯ごたえのあるスコーンというイギリスのお菓子は、紅茶と一緒に食べるそうだ。試食させていただいたがおいしい。私と同年代くらいの女性が店番をしていて息子さんが作っているらしい。 民家のようなお店なので分かりにくいが開店している時はのぼりが出ているのでそれを目当てに行けばいい。人なつこい猫ちゃんが出迎えてくれる。営業は、金・土・日の3日間。10:30~16:00とあまり商売っ気がない。

20250516/ようやく風邪が退散

 4月26日、辻堂のお寺で会合があって食事をした帰りに喉に違和感を感じた。食事している時は、ハンバーグは美味しかったし気分も良かった。次の日になると、咳が出て鼻水も激しくなった。いつも血圧の薬をもらっている内科の先生に診てもらって薬を出してもらった。1週間くらい飲んでいたが一向に良くならない。かえって咳が激しくなって夜も眠れない。 しかたなく、耳鼻科に行くことにした。耳鼻科では、山ほど薬を出してくれた。内科に行っても治らない、と話したら、餅は餅屋、うちは血圧は下げられないが、風邪だったら任せておきなさいと言われた。耳鼻科の薬はよく効いた。何日かするとすっかり良くなり食欲も出てきた。さすが耳鼻科だと思った。晩酌ができるくらい回復したので、いったん薬をやめた。 これで治るのかなと思ったが、数日して、ぶり化した。体がだるい、食欲なし、胸がゼイゼイ。それからが長かった。この状態が1週間以上続いた。このようなときは体の恒常性がすべておかしくなる。肺をやられているので酸素の供給ができない、食欲がない、小便大便が出にくい。 体が悪いと精神にも影響が出る。何もやる気がしない、日記も書く気が起こらない。耳鼻科でもらった薬を飲み切った頃に良くなってきた。まず、胸のゼイゼイがなくなった。お通じが回復した。食欲も出てきた。散歩にも行く気力が出てきた。散歩で草花に励まされながら日記が書けるようになった。 今回の教訓は、一人の医者がすべての病気を治せる訳ではない、得意不得意があるということ。治ったと思っても油断してはいけない、完全に治るまで医者の言われた通り薬を飲み切ること。治ろうとする気持ちを持つこと、病は気からという諺があるがそれである。 草花は春夏秋冬を通して元気にしているが、暑さ寒さ、日照りや害虫の攻撃など、生きるために彼らなりに努力しているのではないか。人の体も自然の一部ということは、漢方の先生に教えてもらった。生物の生命維持や健康を維持するためには人知れず努力が必要だなあと思った。元気付けてくれた道端の草花たちに感謝である。

20250420/龍華寺から野島サイクリング

 すごい風が吹いていた。春一番かもしれない。これからどんどん暖かくなっていくのだろう。今日は、妻と自転車で牡丹を見に行った。 その前に腹ごしらえ。日高屋で定番のニラレバ炒め定食を食べた。いつ食べてもうまい。どの店でも全く同じ味がする。品質管理がしっかりしているのだろう。タッチパネルの注文も慣れてきた。便利だ。 最初は龍華寺に行ったが、風が強いので傘がすべて取り外されていた。黄色の牡丹と藤の花がきれいだった。 そのあと、旧伊藤博文金沢別邸に行った。自転車は便利だ。 伊藤博文が松本房治氏に送った金屏風というものが展示されていた。博文は蓮の花が好きだったようだ。「菊の花は隠逸(質素で控えめ)なるもの、牡丹の花は富貴(富も名誉もある)なるもの、蓮の花は君子(優れて品位がある)たるもの」と言っている。蓮は泥の中から芽を出して美しい花を咲かせる仏教でも最も好まれる花だ。仏陀も好きだった。当然、それを知っていたのだろう。 ここで妻と離れて単独行動となった。はじめは、野島の掩体壕(えんたいごう)という戦争遺跡を見学した。1945(昭和20)年3月15日から6月30日にかけて掘られた横穴だそうだ。長さ260メートル、幅20メートル、高さ7メートルの巨大なトンネルだ。小型の飛行機を100機収納する予定だったそうだ。3か月でこれだけの工事をしたとは、人間業とは思えない。できたころには戦争が終わっていたのだから、まさに「骨折り損のくたびれもうけ」「焼け石に水」だったわけだ。戦争なんてバカなことはやらないことだ。 しばらく行くと野島稲荷神社があった。昔、ここで肝試しをやったことがあった。首なし死体が見つかったなどの噂があった場所で夜は怖かった。狐の石像がたくさん奉納されていた。野島漁港が近くにあるので、漁の安全を祈願する神社だったのだろう。近くに塩風呂という所があったらしい。そこを守る鬼門にあるということだ。鎌倉時代の建立ということだった。 風が強くなってきたので速攻で帰宅した。