五月二日。新緑が目にまぶしい散歩道の終わりに、私は一羽のキジバトと出会った。
道路の真ん中でうずくまるその姿は、まだどこか幼く、クチバシの形がそれが巣立ちを目前にした幼鳥であることを物語っていた。おそらく、風に煽られたか、羽ばたきの練習中に巣から落ちてしまったのだろう。
そのままでは、通り過ぎる車に無機質に潰されてしまうのを見たくなかった。私はその小さな体をそっと拾い上げ、道端の安全な場所へと移した。
「喉が渇いているのではないか」
そう思い、家から水を汲んで戻ったが、幼鳥は水を見つめるだけで、一口も飲もうとはしなかった。ただ、よちよちとおぼつかない足取りで、生きたいのか、隠れたいのか、必死に地面を踏みしめていた。
その夜、季節外れの強い風が吹き荒れた。
翌朝、胸騒ぎを覚えて庭へ出ると、そこには昨日の幼鳥の姿はなかった。代わりに、庭一面に点々と散らばる柔らかな羽。木陰には、かつて命であったものの断片がわずかに残されていた。
夜の闇に紛れて、猫か、あるいはアライグマに襲われたのだろう。
あんなに健気に地面を歩いていた命が、一夜明ければ文字通り「霧散」している。その光景を前にして、私は不思議と、悲しみよりも自然の持つ圧倒的な「合理性」に打たれた。
自然界は弱った個体の存在を許さない。他の命の糧となることで、速やかにその場から消し去られ、自然の循環の一部に組み込まれていく。死骸という生々しい結末を私に見せることなく、自然は淡々と、そして完璧にその「掃除」を終えていたのだ。
幼鳥の死を直視せずに済んだことは、私への救いだった。
けれど、あの時差し出した水に口をつけなかったのは、もう彼がこの世界から旅立つのを覚悟していたのではないかと思った。
残された羽を風がさらっていく。
五月の風は、何事もなかったかのように、今日も新緑を揺らしている。
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