スキップしてメイン コンテンツに移動

▶2025六浦西地区推進連絡会参加報告

下記の通り連絡会に参加しましたので報告します。(廣瀬)

● 日時:2025年10月10日(金) 18時~20時15分 ● 場所:六浦地区センター体育室 ● 参加者:83名 福祉団体24、学校PTA8、自治会町内会44、区役所7 ● 司会: 三瓶かおり(六浦西地区社協事務局長)以下敬称略 1. 開会の挨拶 六浦西地区社会福祉協議会 会長 相川 元治 2. 金沢区長挨拶 金沢区長 齋藤 真美奈 3. 第5期金沢ささえあいプラン 地区別計画にむけて   金沢福祉保健センターこども家庭支援課課長 渡部 憲太郎 4. 六浦西で活動しているグループの活動紹介 ①みんなの交流スペース「むつら(六浦)」  放課後学童&多世代交流「むつらリバーわくわく」     NPO法人地域サポートマリン理事長 熊谷 美紀、長瀬 美鳥 ②道くさc.c. (子ども食堂) 代表諸星佳代 ③登下校見守り隊 <インタビュアー:小林 康代> ・高舟台小 関澤守明 ・大道小 飯塚久典 ・朝比奈小 石川裕子 ・六浦南小 梅村晃

5.グループディスカッション

「六浦西地区のこれから5年を考える ~変える 変わる ちょっとずつ~」 この先5年(2026年~2031年)の地域を想像しながら、現状はどうなのか、どんなまちに住みたいか、 自分たちは何ができるのか、さまざまな視点で話しあいました。 ・進行:三瓶(地区社協)・内田(区役所)・吉田(区社協) 交流、防災、子育ての三つのグループに分かれて上記のテーマに沿って意見を出し合い、ポストイットに張り付けていきました。最後に、話し合いの結果を発表しました。 私は、交流のグループに入り議論を行いました。 【交流できる場所の整備】

・周辺の文化や歴史を学べる高齢者のサロンを作る ・異世代でご飯を食べることが出来る場所を作る ・コンサートなどを聴きながら食事ができるおしゃれな場所を作る ・点在する里山を整備して子どもたちの遊び場を作る ・子どもたちが自由にボール遊びなどができる公園を整備する ・寺子屋塾を発展させて勉強だけでなく、昔遊びなどの伝承が出来るようにする

【イベントの活性化】 ・町内会・自治会の交流をもっと密にする

・遊びを通して異世代の交流ができる場を作る

・他の地域の方と交流できるイベント

・大学生と高齢者が協力して大ごみのゴミ出しなどができる仕組みやイベント ・未来のために、小中学生が活動・活躍できる場を作る 【ホームページなどによる情報共有】 町内会・自治会のホームページ普及推進を行政が予算化して後押しする ・ホームページのひな型を作って利用できるようにする ・他の町内会・自治会の活動状況をまとめて情報共有する

【その他】 ・六浦西地区は、自然(やま・川・海)と歴史がある。その特長を生かす街づくり ・人気のある葉山町と立地条件が似ているので街づくりの参考にする


6.閉会の挨拶 六浦西地区社会福祉協議会 副会長 内田 弘之








コメント

このブログの人気の投稿

ミニ集会 地域に潤いを与える「子ども食堂」

実は、私はつい最近まで「子ども食堂」という存在に対して、非常に冷ややかで懐疑的な目を向けていました。 「なぜ、わざわざ子どもに食事を配る必要があるのか」 「今の日本は、そんなに貧しい国になったのか」 そんな思いが拭えなかったのです。 私が青年期を過ごした昭和四十年代、日本は今とは比べものにならないほど、物理的に食べ物が不足していました。中学校の体育の時間、教室が留守の間に誰かの弁当が食べられてしまう――そんな出来事が日常茶飯事だった時代です。あの頃の子どもたちは、文字通り「腹をすかせて」いました。 だからこそ、飽食の時代と言われる現代に、ボランティアが食事を提供する光景が、どこか「偽善」や「子どもを出しにしたお遊び」のように見えてしまっていたのです。 しかし、ミニ集会で子ども食堂 (みち草CC) のお話をお聴きし、その考えは大きな間違いだったと痛感しました。 私が見ていたのは「昭和の物差し」であり、現代の子どもたちが抱える「飢え」の本質を見落としていたのです。 ■ 現代の孤独とコミュニティ かつて、私たちが「村」に生きていた頃、隣や親戚の家に入り込んで夕食をご馳走になることは、ごく自然な風景でした。 「子どもは地域で育てるものだ」という無意識の合意が、社会の中に確かに存在していたからです。 しかし都市化が進み、人と人とのつながりが希薄になった今、子どもたちは家の中で「独り」になっています。冷蔵庫に食べ物はあっても、誰とも会話をせず、一人で食べる食事。 それは、かつて私たちが経験した「胃袋の空腹」と同じくらい、あるいはそれ以上に切実な「心の空腹」なのではないでしょうか。 子ども食堂は、私たちが高度経済成長の過程で落としてきてしまった「地域コミュニティ」という宝物を、もう一度取り戻す場所なのだと思います。 ■ 支え合う喜び 子ども食堂で働いている方々のことをお聞きして、さらに考えが変わりました。 彼ら彼女らはお金のために働いているのではありません。子どもたちの「おいしい」という笑顔に励まされ、自分自身の居場所を見いだしているのです。 特にご高齢のボランティアの方々にとって、そこは「自分が必要とされる喜び」を実感できる、かけがえのない自己肯定の場になっているのです。 支える側も、支えられる側も、等しく満たされる。 これこそが、私たちが目指すべき「支え合って生きる社会」の理...

20220424落ち葉と良寛

 散歩していると、道を掃除している人に良く会う。例外なく高齢者である。秋の落ち葉の頃、春の桜が終わった頃に道が葉っぱや花びらで散らかされる。掃除をしている人は、年期が入っているので無駄なくさっさとチリトリに入れていく。「風が吹いてきて、掃いてもきりがないですね」と言うとみな同意する。 こんな時に「掃くほどに 風がもてくる 落ち葉かな」という句が脳裏をかすめていた。確か良寛だったかなと思っていた。掃いても掃いても落ち葉が落ちてくる、イヤだなと思っていた。ある時、その句を調べてみると確かに良寛だが思い違いだったことを知り赤面した。 良寛の正しい句は「炊くほどは 風がもてくる 落ち葉かな」というもの。一人五合庵で暮らすためのご飯を炊くくらいの落ち葉は、 風が運んでくれる。これで十分間に合う、ありがたいことだ、という意味だった。 この山の中での暮らしは乏しくとも心は満ち足りたものだよ。これを知って少しは落ち葉掃除も嫌でなくなった。 「炊くほどは 風がもてくる 落ち葉かな」良寛

戦争を知らない私と『火垂るの墓』

2018年に高畑勲が亡くなった時に追悼で放映されて以来、7年ぶりに『火垂るの墓』をテレビで観ることができた。1945年、私が生まれるわずか10年前の出来事だ。このアニメがなかったら、日本がかつてそんな状況にあったとは知らなかったかもしれない。平成生まれの子どもや令和生まれの孫たちにとっては、まったく想像もできないことが、同じ日本の地で確かに起こっていたのである。 戦後生まれの私には、戦争の記憶はない。父も多くを語らなかった。叔父がシベリアに抑留されていたので、その話をわずかに聞いたくらいだ。とはいえ、叔父も悲惨な話は避けた。代わりに「馬糞を間違えて食べた」とか「電気ケーブルを溶かしてスプーンを作った」といった、どこか笑ってしまうような逸話を語っていた。 幼い頃の記憶の中に、横浜へ向かう途中の大岡川沿いに焼け焦げた黒いものが残っていた風景があった。おそらく5、6歳のころだ。子ども心に「汚くて嫌だ」と感じたその景色は、長い間そこにあったように思う。今では桜が植えられ、花見の名所となっているが、あの黒いものは戦争の残骸だったのかもしれない。 家の裏には防空壕が残っている。朝鮮の人に頼んで掘ってもらったものらしい。6畳ほどの広さで、夏でも20度ほどに保たれ涼しいので、電気を引き込み、本を読む場所として使っていた記憶がある。別の山の斜面には「みかん掘り」と呼ばれる穴があり、父の話によれば、そこに海水をためて塩を作ったこともあったそうだ。『火垂るの墓』で海水を瓶に汲む場面を見たとき、父の話と重なった。 井戸も二つあった。一つは飲用や米を研ぐために、もう一つは風呂用に。子どもの頃は、その井戸水を薪で沸かした風呂に入っていた。薪は定年退職した祖父が山から集めてきたものだ。 今では、ガスも水道も電気も揃っている。ボタンひとつでお湯が出て、風呂に入れる。暑ければエアコンを押せば部屋は涼しくなる。 けれど、ふと思う。こうした生活は本当に「当たり前」なのだろうか。戦争や地震でライフラインが途絶えたら、私たちの暮らしはどうなるのだろう。そんな不安を抱きながら、私は今日もエアコンの効いた部屋で、この文章を打っている。