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20250611/Windowsパソコン

 




DellのノートPCを買って2か月が過ぎたが、すでに2回のトラブルに遭っている。はじめは、印刷できないというトラブル。プリントドライバを消して、もう一度インストールしたら直った。もう一つは、外部ディスプレイがつながらなくなったという障害。これもディスプレイドライバを再インストールして直った。しばらくすると、また映らない。今度はディスプレイケーブルを抜き差しして直った。全て原因は不明。だれも、解明できなくなっているのではないかと思った。Macを何十年も使っているが、こんなトラブルに出会ったことはない。Windowsというのは手間がかかるOSだと実感した。ビルゲイツにクレームを入れたいが、直ったのだから良しとしよう。

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ミニ集会 地域に潤いを与える「子ども食堂」

実は、私はつい最近まで「子ども食堂」という存在に対して、非常に冷ややかで懐疑的な目を向けていました。 「なぜ、わざわざ子どもに食事を配る必要があるのか」 「今の日本は、そんなに貧しい国になったのか」 そんな思いが拭えなかったのです。 私が青年期を過ごした昭和四十年代、日本は今とは比べものにならないほど、物理的に食べ物が不足していました。中学校の体育の時間、教室が留守の間に誰かの弁当が食べられてしまう――そんな出来事が日常茶飯事だった時代です。あの頃の子どもたちは、文字通り「腹をすかせて」いました。 だからこそ、飽食の時代と言われる現代に、ボランティアが食事を提供する光景が、どこか「偽善」や「子どもを出しにしたお遊び」のように見えてしまっていたのです。 しかし、ミニ集会で子ども食堂 (みち草CC) のお話をお聴きし、その考えは大きな間違いだったと痛感しました。 私が見ていたのは「昭和の物差し」であり、現代の子どもたちが抱える「飢え」の本質を見落としていたのです。 ■ 現代の孤独とコミュニティ かつて、私たちが「村」に生きていた頃、隣や親戚の家に入り込んで夕食をご馳走になることは、ごく自然な風景でした。 「子どもは地域で育てるものだ」という無意識の合意が、社会の中に確かに存在していたからです。 しかし都市化が進み、人と人とのつながりが希薄になった今、子どもたちは家の中で「独り」になっています。冷蔵庫に食べ物はあっても、誰とも会話をせず、一人で食べる食事。 それは、かつて私たちが経験した「胃袋の空腹」と同じくらい、あるいはそれ以上に切実な「心の空腹」なのではないでしょうか。 子ども食堂は、私たちが高度経済成長の過程で落としてきてしまった「地域コミュニティ」という宝物を、もう一度取り戻す場所なのだと思います。 ■ 支え合う喜び 子ども食堂で働いている方々のことをお聞きして、さらに考えが変わりました。 彼ら彼女らはお金のために働いているのではありません。子どもたちの「おいしい」という笑顔に励まされ、自分自身の居場所を見いだしているのです。 特にご高齢のボランティアの方々にとって、そこは「自分が必要とされる喜び」を実感できる、かけがえのない自己肯定の場になっているのです。 支える側も、支えられる側も、等しく満たされる。 これこそが、私たちが目指すべき「支え合って生きる社会」の理...

20220424落ち葉と良寛

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戦争を知らない私と『火垂るの墓』

2018年に高畑勲が亡くなった時に追悼で放映されて以来、7年ぶりに『火垂るの墓』をテレビで観ることができた。1945年、私が生まれるわずか10年前の出来事だ。このアニメがなかったら、日本がかつてそんな状況にあったとは知らなかったかもしれない。平成生まれの子どもや令和生まれの孫たちにとっては、まったく想像もできないことが、同じ日本の地で確かに起こっていたのである。 戦後生まれの私には、戦争の記憶はない。父も多くを語らなかった。叔父がシベリアに抑留されていたので、その話をわずかに聞いたくらいだ。とはいえ、叔父も悲惨な話は避けた。代わりに「馬糞を間違えて食べた」とか「電気ケーブルを溶かしてスプーンを作った」といった、どこか笑ってしまうような逸話を語っていた。 幼い頃の記憶の中に、横浜へ向かう途中の大岡川沿いに焼け焦げた黒いものが残っていた風景があった。おそらく5、6歳のころだ。子ども心に「汚くて嫌だ」と感じたその景色は、長い間そこにあったように思う。今では桜が植えられ、花見の名所となっているが、あの黒いものは戦争の残骸だったのかもしれない。 家の裏には防空壕が残っている。朝鮮の人に頼んで掘ってもらったものらしい。6畳ほどの広さで、夏でも20度ほどに保たれ涼しいので、電気を引き込み、本を読む場所として使っていた記憶がある。別の山の斜面には「みかん掘り」と呼ばれる穴があり、父の話によれば、そこに海水をためて塩を作ったこともあったそうだ。『火垂るの墓』で海水を瓶に汲む場面を見たとき、父の話と重なった。 井戸も二つあった。一つは飲用や米を研ぐために、もう一つは風呂用に。子どもの頃は、その井戸水を薪で沸かした風呂に入っていた。薪は定年退職した祖父が山から集めてきたものだ。 今では、ガスも水道も電気も揃っている。ボタンひとつでお湯が出て、風呂に入れる。暑ければエアコンを押せば部屋は涼しくなる。 けれど、ふと思う。こうした生活は本当に「当たり前」なのだろうか。戦争や地震でライフラインが途絶えたら、私たちの暮らしはどうなるのだろう。そんな不安を抱きながら、私は今日もエアコンの効いた部屋で、この文章を打っている。