そんなあなたに、ある里山に住む九十歳のおじいさんの話を贈りたいと思います。
その里山のそばには、通勤の車や自転車が行き交う一本の道路があります。季節になれば大量の落ち葉が道を埋め尽くし、放っておけばスリップの危険もあるような場所です。しかし数年前から、その道はいつも驚くほどきれいに掃き清められていました。
ある早朝、その理由がわかりました。近所に住む一人暮らしのおじいさんが、誰に頼まれたわけでもなく、黙々と竹箒を動かしていたのです。
通りかかった人が、思わず尋ねました。「おじいさん、一円の得にもならないのに、どうしてこんな大変な掃除を続けているんですか?」
おじいさんは腰を伸ばし、穏やかな笑顔でこう答えました。「自分の健康のためにやっているんだよ。おかげでこの掃除を始めてから病気もしなくなった。落ち葉には感謝しているんだ。それに、道がきれいになれば、みんな気持ちがいいじゃないですか」
おじいさんは、特別な資格を持っているわけでも、社会的に大きな影響力を持つ立場でもありません。ただ自分のために、そしてほんの少し「誰かの心地よさ」のために、目の前の一歩を掃き続けていただけです。
平安時代の僧、最澄はこんな言葉を遺しました。
「一隅(いちぐう)を照らす、これすなわち国宝なり」
一隅とは、今自分がいるその場所のこと。スポットライトを浴びる大きな舞台ではなく、誰の目にも触れないような片隅であっても、そこを明るく灯す人こそが「国の宝」であるという教えです。
今の社会では、数字や役職、目に見える成果ばかりが評価されます。そのため、私たちは「もっと大きなことをしなければ」と自分を追い込んでしまいがちです。けれど、本当の尊さは、そんな派手な場所だけにあるのではありません。
職場のデスクを少し整える。 疲れている同僚に、温かい飲み物を差し入れる。 家族に「おかえり」と優しい声をかける。
そんな、履歴書には書けないような小さな「一隅」の灯火が、実は誰かの凍えた心を救っていることが多々あります。おじいさんが掃き清めた道を通る人が、知らず知らずのうちに清々しい気持ちになったように、あなたの存在そのものが、すでに誰かの光になっているのです。
もし今、あなたが仕事に疲れ、「自分には価値がない」と感じているのなら、どうか思い出してください。
大きな舞台に立つ人だけが素晴らしいのではありません。 今いる場所を、ほんの少しだけ温かくしようとする人。 その静かな誠実さこそが、この世界を支える本当の光なのです。
あなたはもうすでに、誰かの一隅を照らしています。 あなた自身が、代わりのきかない大切な「宝」なのですから。
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