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20250416/日記を再開した(電脳ダイアリー)

何年ぶりかで会社から解放されて自由の身になった。2025年3月31日で会社との5年契約が解けた。1986年の7月に明星電気を退職して9月に日本電子計算に入るまで2か月ブランクがあった時以来の自由だ。何にも縛られない生活というのは良いものだ。でも、放っておくとダラダラした生活になりそうなので、会社勤めをしていた時のリズムを継続することにした。

月~金はひげを剃って7時過ぎには起きる。ごみ捨てなどをやった後に散歩に出る。約1時間、距離は2~3キロ。歩いているといろいろな人に会う。子どもたちの登校の元気な姿を見ると”おはよう”と声をかけたくなる。返事か返ってくるとうれしい。

同じくらいの年齢の人が多い。たぶん同じ目的なのだろう。よく会う人と古くからの知り合いのように昔話をすることもある。思い出のある道なんだそうだ。小学生のころ、両親が離婚したその時、父親に連れられて最後に歩いた道なんだそうだ。別れる時のさみしさは今でも忘れられないという。昭和17生まれというから、今から60年以上前の話だ。悲しいことはなぜか覚えていると言っていた。

午後から、長生寺の永代経という催しに手伝いに行った。法要の司会を突然たのまれた。レジメを渡されたが、お寺の言葉は難しい。普通の生活では使わないものばかりだ。

浄土真宗では、故人の供養というよりも、仏法を広めるための法要として位置づけられている。永代供養は故人の供養を目的とするのに対し、永代経は親鸞聖人の教えを広めることを目的としているということだった。集まった門徒の人は50人くらいだった。

法話の後に、雅楽による法要があった。笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、太鼓の音は厳かなものであった。

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